昭和48年6月26日 朝の御理解



御理解第59節「習うた事を忘れて戻しても師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって師匠をこの人のおかげでこれだけ出世したと云えばそれで師匠も喜ぶ。おかげを落としては神は喜ばぬ。おかげをうけて呉れれば神も喜び金光大神も喜び氏子も喜びじゃ。」

 覚えておって出世をしとこう、覚えておっておかげを受け、これだけおかげを受けたと云えば神も喜び金光大神も喜び自分自身の喜びであると云う風に頂かなければならんと思います。例えて申しますけれども、此処では皆さんどういう様なことを覚えておいでられておるか、日々信心の稽古をさせて頂いておって、どういう様なことを覚えて居るか。
 天津祝詞も覚えた。祓いの詞も覚えた。拝詞、天地書附、いわゆる御霊様を拝むときの祖先賛詞も覚えたと、やはり覚えなければならないことです。しかしそれだけでは大したことは無い訳です。そこで此処では私は金光大神の御教えを私が頂いて、私がこういう生き方になればおかげになると身をもって実証し、身を以て体験させて頂いておる事を皆さんに覚えて頂こうと思うて、いわば一生懸命であることですから、私が云うておる何処辺を覚えておいでられるであろうか。
 おかげで成行きをいよいよ大事にすることが出来るようになった。全ての事を「御」の字を付けて御事柄として受けて行けれるようになった。五つの願いをその内容を教えて頂いて真剣に此頃は五つの願いを願わせて頂けるようになった。そういういろんなことを皆さんが覚えておいでられておる訳ですから、だからそれを覚えて自分のものにされたらです、これだけ信心を覚えたと云うことになるので、だからこれだけのものを覚えたら、これだけの出世、いわゆるこれだけのおかげを頂けるようになった。もう合楽に御縁を頂いたことを本当に有難く思いますと。

 昨日婦人部会に引き続いて例の通りの信心研修がなされました。もう大変熱心におやりになりました。
 二十三、四日二日間幹部研修会に此処から綾部さんを先頭に立て、秋永先生、文男先生、正義先生四人がおかげを頂いて、まあ皆が言っておることはどういう事かと云うと、本当に合楽の信心の素晴らしいこと、合楽に御縁を頂いたことが有難いと云うこと。
 けれども、私共の勉強不足でです、合楽の信心をどう表現して良いか分からないと云うこと。これが皆が云ってます、四人ながら本当に残念だと、合楽で私共が頂いておる信心をです、実践の上に於て、又は教学の上に於いてもです、合楽の信心がまあ云うならば教学的であり実に超哲学であると思うけれどもです、それをこの様に深く広く説かれることを、自分の表現力を持たないために表現できないことが残念だと云っております。みんな
 昨日綾部さんがこの二日間の模様を色々お話になりましたが、とにかく合楽がおかげを受けておることがです、まあ有難いと云う意味のことに最後に絞っとられます。
 ですから合楽で覚えた信心と云うものがです、これ程おかげを受けたと云うものになって来なければ、そこに神も喜び金光大神も喜び大坪総一郎も喜び皆さんも喜びと云うことになる訳です。
 親先生こういう事を教えて頂いとるおかげでこう云うおかげを頂いておりますと云うことになって来なければ。 
 私は何と云うてもですね、今日は私は信心は「阿片なり」と云った人がありますね。これは悪い意味合なんです。「阿片」とか酒とかタバコとか中毒しますとね、体を害して行くのです。段々体をむしばんで行くわけです、段々。
 何故かと云うと止められないからです。だから信心は「阿片」なりと云った人は人間性と云うかね、人間の云うならば幸福をむしばむものだと、いわば極言して宗教を決めつけた人があります。
 又それを決めつけとらなくても、そんなの信心ちゃそんなもんだと信心は悪い事はないと云うてあんまりのぼせて惚けるからいかんと云う風に云うのもやはり同じ事なんです。
 ところが、なら私が皆さんに聞いて頂く信心と云うのは、もう惚けさせにゃおかんと云うものがある訳です。ですから、私が云う意味のはです、ならその人の幸福をむしばむものではなくて、いよいよ幸福になって行く事のために惚けなければいけんと。
 信心は阿片なりと云う、中毒になると云う、それがだから良い意味合に於いて信心が中毒しなければ駄目です。だからここで一番おかげを受けておると云うのはです、合楽の信心に中毒している人が一番おかげを受けておるのであり、又一番おかげを受けて居る人だと思います。
 だからこれは勿論、だから良い意味に於いて合楽の信心に中毒しなければあの世にも持って行け、この世にも残しておけると云う程しのおかげには絶対なりませんです。
 あんまり惚けんごとせらにゃ、信心は悪いことはなか、けれどももうてんでもう、朝昼晩ちゅうごつお参りせにゃんごつなったら、もう信心はつまらんと云うのではなくてです、いわゆるそういう意味合に於いて信心が中毒する、信心がもう切っても切れない、離そうにも離されないと云うところまで行かなければ、そういう信心は私は皆さんに分かって貰おうとしておる訳です。
 だからそこ迄分かった時にです、私は初めて神も喜び金光大神も喜び大坪総一郎もよろこび、みんなもの喜びだと、皆さんの喜びだと云うことになるのじゃないかと。
 これは良い意味に於いての信心が中毒した訳です。合楽の信心は放されない、金光様の御信心を止められない。止むると思うならいつでも止められると云う様な信心ではお徳が受けられる筈はありません。どうか毎日参りよったのに止むると気色の悪かてんなんかは悪い意味に於いて中毒しよるとです、ね。
 参らにゃ気色の悪か。いつもどうか酒の入っとらにゃ気色の悪かと云う酒の中毒と同じこと。
 私共の直接幸福につながるどの様な場合でも有難いと心の中に感じられる。しかもその有難いと云う心におかげがあると云う信心、そういう信心をいよいよ身につけて行かなければ、そういう信心を覚えたときです、おかげを頂いた、親先生おかげを頂いてようこそ合楽に御神縁を頂いておりましたと云うことになるんじゃないか。 神も喜び金光大神も喜び大坪総一郎も喜びみんなもの喜びと云う四つのものが揃わなければいけない。

 あれだけ熱心に信心しよったのがスポッと止めてしまったと云うのがある。結局は有難い有難いと云うとったのは嘘になるのです。 例えば酒の中毒、タバコの中毒しとった人がです、止めると云うときには命がけで止めんならん。
 なら金光様の信心を止めるには命がけで止めんならん。と云うのなら素晴らしいですけどね。止むと思えばいつでも止められる様な信心では、私今日ここで云うところのおかげでと言えれば師匠もよろこびと云うものではないことになります。
 だから皆さん私が皆さんに一生懸命分かって貰おうとしておる、又私がこれをもっておかげを頂いてきたと云う、成行きを大事にするとか、全てのものに御の字を付けることわりを皆さんに聞いて貰うて、成程一切御の字をつけるのが本当だと云うことが分かって御の字を付けての頂き方、生活態度と云うものが身に付いて来る。
 最近は五つの願いを何故願わなければならないか、この五つの願いはいわば皆がおかげを受けると云うことにおいては、皆が願っておる願いだけれども、その受けたおかげをどう表すかと云うことがあの五つの願いの内容なんですよ。
 健康のおかげを頂くのも、財のおかげを頂くのも、天地の親神様の御神願成就の為に奉仕のです、どうぞお使い回しの出来ることの為にどうぞ健康のおかげも下さい、財のおかげも下さいと云うのですから、五つの願いと云うものはそうですね。

 昨日久富繁雄さんが研修会に発表しとられまして、もういつもボソボソとお話になりますから、もういっぱいに聞こえない位ですが、私は側におって聞かせて貰うて素晴らしいな、素晴らしいなと思うて聞かせて貰うて頂いた。
 この頃から風を引かれた。まあ大変難儀を感じた訳ですけども、その難儀を感じておる中にです、日々平穏無事でおかげを頂いておると云うことは実に有難いと云うことなんです。
 そこで痛い痒いが治ったので有難いんだけれども、いつも壮健なのが有難いことを身を持って感じた訳なんです。
 信心の喜びと云うのは、痛い痒いいわゆる難儀から救うて貰うことも有難いがです、頂いたときのそのおかげでです、そのおかげがもっともっと有難いと云うものにならなければならない。云うなら痛い痒いじゃなくて、商売なら商売さして頂いとるものが、さああちらにも借金こちらにも借金と云うて一生懸命お参りをしておかげを頂いて、おかげでようやく借金払いも出来た、商売も軌道にのったと云う頃になるとです、信心が緩んでくるような事じゃいかん。店の方が忙しゅうなれば忙しゅうなる程段々おかげを頂いて赤字ではなくて黒字になって行けば行く程信心はいよいよ募って行かねばならない。と云うことを話されましたですね。ところがどうでしょう、成程一生懸命信心してござるばってん、自分が悪いことしよるもんじゃけん、もうその悪いことの罪滅ぼし的に一生懸命信心しとると云う人もあります。これはしかし、悪いことじゃないです。もう実を云うたら神様が分かっておるから出来るとです。
 神様は有難いお方だ。神様は怖いお方だと分かっておるから自分の神様の心に叶わん様なことをしておる。それをどうにも出来ない自分がです、それこそお詫びの印にもと思うて一生懸命信心すると云うのは、丁度馬に乗って走る。普通では行けないような所を通り抜けて行けれるためにそういう信心も素晴らしいです。
 それは神様は有難いお方じゃと、神様は怖いお方じゃと分かるからそうするのです。
 それとは反対に、あああの人はなかなか人物、決して悪いことは・・・・云うならばなかなか修養の出来た人、人間的にもなかなか道徳的な人。だから自分は悪いことはせんと思うとりますから、只神様にお願いすることは通ると思うとる。そして成程おかげを受けておるから信心の方には一向熱がいらんと云う人もあります。
 私共はどっちかと云うとその悪いことをする方です。
 自分で悪を感ずる、私の信心の過去と云うものを二十何年間の過去を振り返ってみるとです、だから信心が出来た、だから修行が出来た。その頃にはその悪も取れてもうあのところを通らなければここのところには辿り着かなかっただろうと、云う様な体験が幾つもあります。
 自分にお粗末御無礼を感ずる。感ずるからお粗末御無礼でよかろう筈が無いから、お詫びの印に普通では出来ん修行でも出来ると云うことになるのです。
 かと云うと、人物的になかなか立派である。だから人から後指をさされる様なことは決してせん。云うなら悪いことは決してせんと自分ではそう思うとる。だから神様にそう逆とんぼうたんでん、そげん特別の修行せんでもおかげは受けられるとたかをくくっておると云う人。
 これも或意味では素晴らしい。何かの機会にだからそういう人が一生懸命になるようになると、鬼に金棒です、ね。人間的にも立派だし信心修行も本気で出来るようになる。だからそこんところをです、昨日繁雄さんが発表されます様にです、痛い痒いが治るためには一生懸命に信心するけれども、それが治って健康になる、おかげで借金払いも出来、商売も軌道にのって段々繁盛の一途を辿るようになると、忙しさにかまけて、そして信心の方がおろそかになると云うことではもう信心はそれまで。
 それでは決してあの世にも持って行かれ、この世にも残しておけると云う信心にはならない。おかげを頂けば頂く程、健康であればある程、その信心の喜びと云うものは、痛い痒いが治ったとき以上の純粋なよろこび、純粋な信心と云うものが出来て来ると云う、それが一番素晴らしい信心だと云う。
 私は昨日久富繁雄さんの話からその事を感じ取らせて頂いた。成程それだと、信心は。
 おかげは受ける迄は一生懸命だけれども、おかげを受けたらもう御恩は忘れたと云う程度の信心じゃなくて、おかげを受けた時点でです、いよいよ信心の有難さと云うものが募って来るところのおかげ、そういう信心でなからなければお役に立つ信心にはならない。いくら五つの願いを願っても、それは口だけのことであって、今迄借金を負うておった人がおかげで借金払いが出来て段々残るようになった。それがいよいよ有難いと云うことになるから、それを何とかして表さなければならない。神様に喜んで頂くような御用に使うて貰わねばおられないと云うことになるときにです、神様の喜んで頂く様な御用にでも使うて貰わねばおられんと云うようになるときにです、又その御用が出来るときにです、いよいよ信心の喜びが感じられると云うのが、私は本当の神も喜び金光大神も喜び、ここで云うなら大坪総一郎も取次の甲斐があったと喜び、皆ものいよいよ喜びと云うことになるのです。
 そういう信心を、いわばそういう信心を覚えて頂きたいと思うです。そういう信心を身につけて頂きたいと思うのです。
 おかげを頂いたら信心がおろそかになると云った様なことではいけないでしょう。と云うて、なら苦しいときだけ一生懸命と云うのもいけない。苦しいときに助けられた喜び以上の喜びがです、おかげを受けた時点においてもより喜びが御用にもつながる程しの、いわゆる人間の幸福にもつながる程しの信心を覚えたときです、もうその信心はあなたに中毒してしまっておる。切ろうにも切られないと云うことになって来る訳なんです。
 よい意味の信心の中毒が出来たときです、初めて親先生おかげを頂いて本当に合楽にご縁を頂いておったことが、いよいよ有難いと云うことになって来るのじゃないでしょうか。
 神も喜び金光大神も喜び氏子をも喜びだと知った程しのおかげをね、目指しての信心、その内容をかくあらねばならないと今日は聞いて頂きましたですね。 どうぞ。